【小池龍之介さん第1回】「幸福」を「興奮」と取り違えた僕たちに、本当の幸せはこない

小山龍介によるインタビューシリーズ。今回は、お坊さん小池龍之介さんに、現代を生き抜く知恵を伺っていきました。

私たちは「興奮」を「幸福」と勘違いしている

──小池龍之介さんに最初に伺いたいのは、仏教における「幸福」についてです。5年前、10年前までは、多くの人たちが「成功したい」と言っていましたが、今はなんだかしっくりきません。

うーん、どうやったら、「成功」したことになるのでしょうか。

──そうなんです。たとえば、年収が1500万円になると「成功」なのかというと、それもヘンな感じがする。

はい。

──「成功」ではなく、「幸福」。それはどういう状態なのか。小池さんが本の中で書かれている「五感で実感すること。それが幸せ」という仏道における「幸福」の定義は、一般的な定義とは随分違っていると思いました。

一つ、大切なことを申しておけば、私たちは「幸福」と「興奮」を取り違えてしまいがちなんです。競馬で負けるか勝つかとドキドキしているとき、興奮しますよね。「おおー!1000万円当たりそうだ!」みたいな感じで。

──はい。

すごい興奮しますけど、それは脳が「幸せ」と錯覚しているだけで、本当は、体は興奮状態に置かれて血圧が上がり、不快物質が体の中に生まれて、苦痛の状態に置かれているわけです。

とても難しいテレビゲームに取り組んでいるとき、自分が負けるかもしれないという状況でドキドキすると、脳が「楽しい」と錯覚します。やがてクリアできるようになると、そのゲームに飽きちゃいますよね。まあ、私もファミコンとかやっていた時代がありますが。「ドラゴンクエスト」とかでも、レベルが99ぐらいになって、相手を一発で倒せるようになると飽きちゃう。

──ええ。詳しいですね(笑)。

慣れてくると幸福感がなくなり、充足感を取り逃がす

自分の状態が不完全で、ドキドキするような状態に置かれると、人は「楽しい」と錯覚しがちなんです。でも、それは本当の「幸福」ではなくて、ただ単に不安な状態になっているのを心が「楽しい」とデータを書き直しているとも言えるんです。

典型的なのは恋愛のドキドキ感です。相手とまだうまくいっていないときは、「うまくいくんだろうか、どうだろうか」「相手は自分のことを好きだろうか」って。ゲームで言えば、まだクリアできていない状態のドキドキ感。それを「幸福」だと錯覚してしまうせいで、せっかく相手と恋愛がうまくいっても、ドキドキ感がなくなって、「前ほど幸せじゃなくなった」と錯覚してしまい、その恋愛を壊したくなってしまう。

ドキドキしなくなったのは、心が「幸福」になって安心しているということなんですが、脳が勘違いしちゃうんです。「ドキドキがなくなってきた」「つまんない」「刺激がなくなってきた」「つまんない」と。

仕事で言えば、新しいことにチャレンジしている間はドキドキしますが、だんだん慣れてきて、うまく仕事をこなせるようになってきたら「難易度が低くなってきた」「つまんない」と思うようになってしまう。

実際はその状態は安定期に入っていて、せっかく穏やかな幸福感や充足感を味わうチャンスなのに、よりによってそのときに幸福感がなくなり、充足感を取り逃すような脳の仕組みができている。

──幸福感や充足感を取り逃がす人と味わえる人は何が違うのでしょうか。

私たちはこれまでの人生を通じて、不安や緊張状態に置かれたときの刺激を脳に送りこんで、それを「気持ちいい」と錯覚し続けるクセを長年にわたって刻み込んでしまったので、そうでない状態を「つまらない」と思うんです。

触り飽きたものや見飽きたもの、聞き飽きたものについて、だんだん脳が「もうその情報は刺激が得られないからどうでもいい」と思って、しっかり認識できなくなっているんですね。

見飽きた風景の解像度が下がっていく感じ。見飽きた相手の顔をジーッと、出会ったばかりの頃のようには見られなくなっていったり、慣れ親しんだ相手の話がボーッとしてよく聞こえなくなったり。

最初の頃は、同僚の話をよーく聞こうとしたり、プレゼンテーションをジーッと聞こうとしたり、恋人の話をジーッと聞こうとしていたのに。

慣れてきたものは刺激が少ないので、それ以外の「あ、不安だ」とか「あ、緊張する」という、より強い刺激に意識が向かってしまうんです。相手と話している最中も、相手に対して心がとどまらない。上の空になってしまうことによって、文字通り、心が充足しない。心が現実にちゃんと引っかからなくなって、頭の中が、「過去」の思い入れや失敗したこと、「未来」の願望や失敗したらどうしようという不安など、そういう現実に今、起きていないことに向かって、心が逃げていってしまうのです。

それは心が充実したいので、充実しない「現在」以外のところにいって充実しようと思ってやっていることなんですけど、皮肉なことに、そのせいで「現在」がぽっかり抜け落ちてしまって、「今がつまらない」「今がつまらない」「今がつまらない」「今がつまらない」……という繰り返しになり、充足感が欠落していく。

身体感覚に集中することで、心を「現在」につなぎとめる

では、どうしたら充足感を取り逃さないかというと、そうやって逃げ出そうとしてしまう心を「現在」に引き戻してあげることです。見ることに集中し、聞くことに集中する。集中しているうちに、「これ、つまんないと思い込んでいたけど、実は楽しいね」という認識が生じてきます。

相手の表情の変化をジーッと見ていたら、「あ、この人の目の動き、結構面白いな」とか、「口の動き方、面白いな」とか、「今、ああいうふうにシワが寄った、面白いな」とか、見るべきところが本当はいろいろあるんです。

ちなみにそれはただの面白みではなくて、必ず感情の変化を反映しています。相手の感情が常に微妙に変化しているということが読み取れて、そういう情報をちゃんと認知できるような心を持っていれば、ただ話すだけのことが面白くなってくる。仮に相手の話の内容がつまらなくても、表情などが発信している細かな情報が興味深ければ、集中できます。

というような具合に、今、現実に起きていることに向かって心をちゃんとつなぎとめておくと、過去や未来に向かって心がイライラと勝手にさまよっていくことがなくなります。

ほかの例を挙げると、掃除がありますね。掃除ってあんまり好きな人はいないと思うんですけど。

──ええ。

散らかってくるとイヤだなあって思いますよね。でも掃除を始めると、結構みんな楽しくなってきて……。イヤな人もいると思いますけど。

──ハハハ、はい。

まあ、集中するのが苦手な人はいつまでたっても楽しくならないかもしれないですけど、ああいった単純動作に集中していくのは結構楽しいですよね。お皿を洗うとか、料理をするとか、反復を含んでいる単純作業。

極端な話、(燭台を持って机の下に置いたり、机の上に上げたりしながら)「これを下げたり、上げたりしてください」って言われて、「こんなことに一体、何の意味があるんですか。無意味な仕事をやるのはイヤです」と思い始めると、イライラしてきますが。

──ええ。

そういう余計なことを考えずに、「今、触れている」という感覚と、「今、離した」という感覚。「触れた」「離した」「触れた」「離した」「触れた」「離した」……。今起きている現実の感覚に集中して、それを繰り返していると、すごく気分がリフレッシュしてくるはずなんです。現在の感覚に心がしっかりと密着するので。

──ハ~。

掃除なんかは典型的にそういう反復動作を含んでいて、身体の動作に心が密着していくので、心が楽しくなってきてリフレッシュします。

もう1つ例を挙げますと、最近、皇居の周りで走る人が増えていると、先日、ラジオの取材に来た方がおっしゃっていました。

──そうですね。

やっぱり走っているときはごちゃごちゃ考えないからだと思います。刺激を求めて脳が考えすぎてしまうわけですが、脳はそれを「気持ちいい」と錯覚していても、みなさん、どこかでそれを「しんどい」と分かっているんです。で、思い切り走って限界までいくと、考える余裕なんてなくなってくる。もう体の感覚に意識を密着させる以外、何もできなくなる。

そうやって集中すると、考え事のノイズが消えていって、それで充実するというのをどこかで分かっているから、走るのが流行るんだろうなあ、という気がします。

こうしたスポーツに打ち込んでいるときの充実感で共通して言えるのは、それらは決して刺激的ではないということなんです。

──ああ。

一見、スポーツに打ち込むって、刺激的な印象があるかもしれないですけど。

──ええ。

ものすごく打ち込んで充実したことのある人が振り返ってみれば、そのとき、すごく興奮したり、ドキドキしたりはしてないはずなんですね。とてもクリアな感じで、心がスキッとして、ただ見ること、動くことにものすごく集中している。

もし、そのときに「少なくとも3位には入賞したい!」とか「グランプリを取りたい!」とか考えて興奮していたら、充実しなくなってくる。

「今」に集中すれば、どんな仕事でも充足できる

つまり、雑念がない状態になれば、実は何をやっていても充足するんです。「クリエイティブな仕事じゃなきゃ充実しない」と思っている人が多いと思うんですけど、クリエイティブな仕事なんて、はっきり言って、ごちゃごちゃいっぱい考えなきゃいけないから、どちらかと言うとストレスがたまりがちなんですよ。

(燭台を上げ下げして)むしろ、こういう単純作業の方が充足感を得られるんです。それなのに、「このオレ様がなんでこんなつまらない仕事をしなければいけないのか」とか余計なことをあれこれ考えるからストレスがたまる。

──アハハハ。

そういう雑念はひとまず置いといて、とにかくやり続ける。すると、やっているうちに、ただ置いたり戻したりするだけでも、「音を立てないようにしよう」とか、「より滑らかに置けるようにしてみよう」と工夫するようになり、「今、触った」「今、置いた」「触った」「置いた」「触った」「置いた」……と「今」に集中していって、どんな仕事をやっていても充足できます。

仕事に貴賎はありません。「触れる」「見る」「聞く」「匂う」「味わう」……。まあ「匂う」「味わう」は仕事であまり使わないかもしれませんが、そういった基本的な動作を組み合わせてやっているのは、どんな仕事も同じですよね。

──はい。

一見、よさそうに見える仕事であっても、それらの動作にちゃんと心がとどまらなかったら、つまらなくなってしまいます。

頭は錯覚しているかもしれないんですよ。「世間で高く評価されている仕事をオレ様がやっているから、なんかストレスがたまるような気がするけど、楽しいに違いない!」って。

でも、その仕事に心がしっかりとどまらず、触れたり、見たり、聞いたり、話したりできていなければ、余計なことをいっぱい考えてしまって、実際はとても苦しいんです。

一見、自分が高く評価されるような仕事でも、評価されることをすごく気にしたり、たまに失敗してすごくプライドが傷ついたり、上がったり下がったりしていたら、とてもストレスフルです。

どんな仕事をやっていても、刺激に依存しないことが大事です。ドキドキする、上がったり下がったりする興奮ではなく、しっかりと今の感覚に心を密着させる。それが「幸福」を感じるために必要なんです。

考えすぎによる不感症を飛び出して、臨場感を得る

たとえば、仕事ってコミュニケーションがとても重要な役割を果たしていると思うんですけど。

──はい。

相手の繊細な感情を浮き彫りにして受け止めてあげられるくらいに集中して、目で見る、話を聞く。それは相手のためにというのもありますが、自分のためでもあるんです。ちゃんと感覚に心を密着することで、考えすぎによる不感症を飛び出して、臨場感を得ることができます。

相手と一緒に「今、いる!」「見ている!」「聞いている!」「話している!」という臨場感。特に重要なのは、「触れている!」という臨場感です。それがないと、だんだん不感症に……というか、脳内に遊離したみたいな感じになってしまう。

現代人の仕事って、ある意味、脳だけ取り出して、媒溶液につけて、体は存在せずに、何か気持ちのいい夢を見させられているような感じがなきにしもあらずなわけです。

──ええ。

その脳に強い刺激を与えるために、現実から逃避するような娯楽に手を出したり、すごくドキドキする興奮を与えたりしなければならなくなっている。そうなった原因は、(燭台を上げ下げして)現実のシンプルなこういう身体感覚が鈍くなっていること。

相手の表情や動作、しぐさを仔細に観察してみるとか、相手の声色やトーンの変化を聞き分けるとか、そういう刺激の少ないことに対する臨場感が薄まっているからです。

薄っすらとした刺激だとちゃんと認識できないので、とても強い不安やとても強い緊張を求めてしまう。「成功したい!」というドキドキ感を追い求めて、叶いそうもない夢を抱いたり、博打のような、うまくいくかいかないか分からないことに無理矢理飛び込んでみたり。そういう興奮状態を自ら作り出して、初めてちょっとだけ刺激を感じられるぐらい不感症になっている。

──ええ。

SM好きは、実はセックスが嫌い

現代人はSMとか好きじゃないですか。極端なSMはともかく、「ソフトS」とか、「私、ちょっとMなの」みたいなことを言うのが流行ってる。しかし、あれはセックスが好きなわけではなくて、不感症で、ある意味セックスが嫌いだからこそSMが好きになったんです。

普通に愛し合う、お互いをいたわりあって愛撫し合うというのでは全然感じないので、相手をすごくいじめたり、いじめられたりする。脳内の麻薬を出すような興奮をつけ加えないとよろこべない。「あ、いじめられてる。どうしよう!」とか思わない限り、気持ちよく感じられない。つまり、不感症だから、そういうことを必要としてしまうんです。臨場感が薄れている分、「言葉責め」やら、そういう余計な付加物が必要になってくるんです。

──フッフッフ。

第二回 オリジナリティーという幻想、永続という空想

1978年生まれ。山口県出身。月読寺(東京都世田谷区)住職、正現寺(山口県)副住職。東京大学教養学部卒。2003年、ウェブサイト「家出空間」(http://iede.cc/)を立ち上げる。2003年から2007年まで、お寺とカフェの機能を兼ね備えた「iede café」を展開。自身の修行を続けながら、月読寺や新宿朝日カルチャーセンターなどで一般向けに坐禅指導を行う。これらは常に満席で、「もっとも予約が取れない坐禅教室」として話題に。主な著書に、『考えない練習』(小学館)『「自分」から自由になる沈黙入門』『もう、怒らない』(ともに幻冬舎)『煩悩リセット稽古帖』『貧乏入門』(ともにディスカヴァー・トゥエンティワン)『偽善入門』『仏教対人心理学読本』(ともにサンガ)、などがある。

Ryusuke Koyama

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